“オオカミと人間”という本をamazonで入手した。ちょっと真面目な本である。普段のわたしはこういった本は絶対間違っても入手しない。
何故この本を入手したのかというと、高校3年の時に図書室で読んだことがあるからというだけの話なのである。この時期は学校に通うだけで苦痛で、上っ面だけの友達(問題は自分にある)と付き合うのが最大限に苦痛だった。授業は退屈だし、休み時間は手持無沙汰で、ましてや昼休みなんて地獄にしか感じられなかった。
今にして思えば中学になってから人付き合いが苦手になっていた。理由は中学から“喧嘩を封印”してしまったからだと思われる。もっとも得意だった“コミュニケーションとしての喧嘩”を使わないのだから相当なストレスだったのである。高校3年の時期がおそらくそのピークだったのだと思われる。“喧嘩を封印”しなかったら今の自分はどうしようもないクズになっていたとも思う。今だってたいした人間ではないのだが。
話を戻します。
そんなこんなで昼休みは図書室で過ごすことにした。もちろん本なんて読む気はなかったが、何か読んでいる振りをしないと不都合だったので“オオカミと人間”を手に取っただけなのである。
1年間、昼休みは図書室で“オオカミと人間”を読んでいる振りをし続けたのである。とはいえ、読んでいる振りも苦痛になってきて、読むとはなしに読んでいたのである。面白いかといえば退屈な本である。人間というフィルターを通しているということを意識的に自覚させながら、オオカミを多角的視点により分析している感じの本。オオカミを触媒にして人間の愚かさを浮き彫りにする的なものだったような感じ。ハッキリいって退屈な本である。
一通り読んで、他の本でも読もうとか思うこともなく、毎日昼休みには“オオカミと人間”である。何度も何度も飽きもせず“オオカミと人間”なのである。本当は飽き飽きしていたのだが“オオカミと人間”である。
こうなってくると高校に通うのではなく、“オオカミと人間”を昼休みに読みに行くだけという。かといってそれが楽しいかというとそういうことではない。長い昼休みを誤魔化すだけという動機なのであって、大抵は読んでいる振りをしながら寝ているという……
今から考えれば、高校なんてわたしには意味は無く、体裁だけのために通っていただけ。本当のところ働いていた方がよっぽど自分のためになったと思うし、親にも無駄な出費をさせただけだったな。ごめんなさい。
不意に思い出した“オオカミと人間”をamazonで検索。あったあった。懐かしい感じ。郷愁にかられて入手。高校時代なんて絶対に戻りたくないし、長い昼休みを誤魔化す図書室なんて戻りたくもない。図書室のおばちゃんもガミガミうるさいヒステリーだったし。
人間とは矛盾した生き物なのである。良い思い出ではないのに“オオカミと人間”を入手したりするのだから。ひょっとすると、今の自分が“あの袋小路”的な精神状況にあるのかもしれず。苦痛を緩和するための処方箋が“オオカミと人間”なのかもしれない。入手しただけで読むことはたぶん無いと思う。パラパラするだけ。
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