2015年12月24日木曜日

君へ

取り急ぎ伝えとくね。今日は墓参りに行けなくてごめんな。
君のことは忘れていないから、な!

2015年7月21日火曜日

ジャック・リッチーのあの手この手にノックアウト

著者:ジャック・リッチー
『ジャック・リッチーのあの手この手』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
『カーデュラ探偵社』(河出文庫)
『クライム・マシン』(河出文庫)

 上記の3作品を読んでみた。HPB版の『ジャック・リッチーのあの手この手』を読んだら割りと面白かった。オチが弱い作品が多い気もするが、オチありきではない、力み過ぎない作品たちが割りと好感触なのです。そこで河出文庫の『カーデュラ探偵社』と『クライム・マシン』を入手して読みました。なかなかに味わい深い作品群でありました。匠の技を十二分に堪能させていただきました。
 わたしの好きなドナルド・E・ウェストレイク氏もジャック・リッチー氏を絶賛していたようですし、ジャック・リッチー氏もウェストレイク氏の作品を好んでいたようです。それを解説で知り嬉しくもあり、悲しくもありました。悲しいのは匠のお二人がどちらも既に他界されているからです。ああ無常……

 リッチー氏は掌編・短編を得意とした作家のようです。というか掌編・短編を生業としていたのかな。なので、アンソロジー的なもので以前にひょっとしたら1作くらいは読んでいたかもしれないなあ。
 よく出来たお話は既視感があるものです。リッチー氏の作品群はまさに多々その感じを受けるのでした。
 捻りのある掌編・短編の場合、クルンと思いもしない反転をします。そんな捻りの効いたお話に撃たれつつ、オチありきではない掌編・短編にリッチー氏の真骨頂を感じたりしています。良い作家に出会えて大満足です。
 また読みたくなってきました。早速、短篇集『10ドルだって大金だ』を注文してみようかな。

2015年4月9日木曜日

六人目の少女

『六人目の少女』 HPB版
著者:ドナート・カッリージ
翻訳者:清水 由貴子


 しばらく前に入手していた小説『六人目の少女』を読んだ。
 わたし的には今一歩の物語だった。面白いのだが、なにか物足りない。この“なにか”を求めて感想にならない駄文を起こしてみた。
 ストレートに書くと、残念ながら登場人物に魅力がない。そのように書くと身も蓋もないし、それで終わってしまうので、無理矢理絞りだしてあーでもないこーでもないと書いてみることにした。
 
 6本の左腕を巡る物語。1本の左腕の所有者が発見されるたびに過去の事件が掘り起こされる。それにより過去の犯罪と犯人が炙りだされる。
 掘り起こされる過去の犯罪は段々と規模と陰惨さが増してくる。これを解決していく過程で次の所有者のヒントが提示されていく。
 上述のように話が進んでいくと、今回の表題の事件の首謀者は長い年月を掛けていることが分かるようになっていく。
 ラストに向かっていくと加速度が増してゆくのだが、犯罪が起こってしまったことが確定してしまっているが、危うい状態で成り立っている犯罪だということが分かる。
 つまり、物語が進むと段々と嘘くささが増していく感じを受けるのだ。本当の首謀者らしい人物が冒頭から書かれているのだが、真相らしきもので納得させられることはなかった。こんなので本当に犯罪が起こるのかかなり疑わしい。起こってしまった犯罪そのものが胡散臭い印象を受ける。すると小説そのものがよく出来た作り話にしか感じられなくなる。いや、小説は作り話なのでそれはもっともなのだけれども。なんというか読んでいくうちに小説から心が離れていく感じなのである。
 ラストに物語をより強化する落ち的なものが加えられるのだが、わたし的には最後のダメ押しでこれは駄目かもわからんね。と、思ってしまった。
 こんな感想では駄目かもわからんね。ということでもう少し違う角度から攻めてみることにする。


 物語の構造を書いてみる。6本の左腕は、6つ犯罪を表す。5人の被害者は、過去の犯罪への誘導となる。過去の犯罪は現在の犯罪への誘導ともなる。つまり、この物語の構造は“連鎖”である。
 謎(事件)は解(捜査)により“連鎖”していく。解(捜査)は物語の“触媒”である。

   よし、無い知恵を絞って“連鎖”と“触媒”が導き出せた。
 まずは“連鎖”についてだ。連鎖するためにはまずブロック(事件)が積み上げられている必要がある。
 ある意図を持って積み上げあられたブロック。つまり設計者が首謀者となる。この場合において作者は設計者である。
 このブロックを崩していくのがプレイヤーになる。捜査班がプレイヤーとなる。この場合において読者はプレイヤー側である。作者はもちろんプレイヤーでもある。
“触媒”は本来の意味において自身は変質しない。が、捜査班(個々人)は“連鎖”が進むほどに変質または変化していく。
“触媒”という意味において、真の触媒は首謀者である。設計者はまさに設計のみを行う。現在の犯罪も過去の犯罪も設計のみで実際の労働(犯罪)は行わない。犯罪者の素養があるものを犯罪者に変容させるのが首謀者であり触媒である。
 6本の左腕は象徴であり挑戦状・力の誇示である。一人の少女の左腕は希望であり救いである。この少女を救えるかというのが首謀者の挑戦ということであろう。読者へのフックでもある。
 捜査班はプレイヤーとなり謎解きに挑んでいく。謎解きの原動力は少女を救えるかもしれない可能性である。読者の読み進めるための原動力にもなっている。これも読者へのフックである。
 捜査班は専門家集団である。謎解きをして次の事件にぶち当たることが正しい道筋となる。これが連鎖していく。
 設計者の意図は何か? これが物語の大きな謎であることは間違いない。そしてもっとも大きい読者へのフックということも間違いない。 つまりこれを読み解けというのが設計者の意図であり、作者の意図である。
 物語は、設計者の意図だけを謎にしたまま収束する。この意図をどう読むのかは読者に任されている。
 このように構造に着目してみると割りと面白い感じになるなあ。

 では設計者の意図について書いてみたい。これは読者の数だけ解がある。ということなので、これが絶対的な解ではない。
どちらかと言うと、わたしの解はヒラメキみたいなものである。納得できるものではないというのはご承知の上で読んでくだされ。噴飯ものの類だと思われる。

 では、さて、いきますか。首謀者(設計者)は血肉を備えた一人の人間である。であるが、名前も生まれも不明な匿名性の高い人物として描かれている。冒頭の書簡のやり取りで登場する首謀者は、全裸で身柄を拘束されるのである。なおかつ事件が明るみになる6本の少女の左腕が発見される前、もう少しきちんと書くと、少女たちが行方不明になる前に既に刑務所に収監されている。このことから連鎖する事件には関わりがないことが分かる。実際には関わっているように見受けられるが、その関わりが証明不能なのである。
 霊媒体質の女性が登場して、首謀者らしい人物と過去の犯罪予備軍が接触して犯罪者に仕立て上げられる様子が霊視? されるがこれが唯一の証拠ならざる証拠として読者に提示される。

 作者は、匿名性の悪、法律では無効な悪、触媒としての悪を描いてみせた。ややもすると実在性のない悪魔になりかねない首謀者にギリギリのところで血肉を与えた。握手でもって。ラストでは主人公に首謀者の名前が効果的に明かされる。

 ということでここから噴飯させるぜ。首謀者のキャラクターは『エルム街の悪夢』のフレディーに着想を得たのではなかという妄想。悪夢でもって犯罪予備軍を犯罪者に仕立て上げるのである。
 この悪夢は手練手管のマインドコントロール術。いわば触媒としての悪であろう。決して捕まらないというのは法律では無効な悪と、匿名性の悪で実現できている。
 フレディーとの唯一の違いは血肉を備えているかいないかの違いかな? わたし的には近しい存在な気がする。

 この物語の危うさは後半になるほど際立ってくる。畳み掛ける展開でもってしても誤魔化しきれない。この危うさの根っこは、手練手管のマインドコントロール術にすべての事件が成り立っているという点である。それも一人の人間によって設計され積み上げられ、自らのシナリオにより挑戦状として提示し、暴露させるのだから違和感を覚える。
“連鎖”とは言い換えれば繰り返しの妙だが、ラストにもキッチリ“連鎖”の余韻を持ってきたのは設計者(作者)の力量を表している。なんてね。

 つまり、この謎の意図をどう読むのかが評価軸の分岐点になるような気がする。さて、みなさんの評価はいかがでしょうか。

2015年2月5日木曜日

映画『特捜部Q -檻の中の女-』

 先日、2/3に映画『特捜部Q -檻の中の女-』を観に行って来ました。“未体験ゾーンの映画たち2015”という映画祭です。
 正直に言うとそれほどの映画ではありませんでした。雰囲気は良かっただけに、とにかく端折りが多くて残念な感じでしたね。
 これだけではネタ未満なので、もう少し話を膨らませます。


 携帯で暇つぶしに書いたもの
 現在12:42。渋谷に到着。
 渋谷駅13番出口から直進した右手のcocoti(ココチビル)8F。入り口に3つの長いエスカレーターがある。8Fに受付兼チケット売り場がある。今回は予約なしできました。座席G9を確保。

 はやく着きすぎやることなし。公園で一服中。
 オシャレな若者が多い。可愛い娘も多く目の保養をした。外国人も多く見受けられた。
 わたしは普段着ているライダースとミリタリーとワークの混ざった格好できました。浮いている感じはしないが、オシャレ感はゼロだろうな。とほほ。

 入館は10分前とのことなので昼飯をたべようと思ったが、下調べしておらず、しばし歩いて回ったが、場違いな感じがしてコンビニでコロッケパンと缶コーヒーを買ってきた。公園でこれを書いている。
 つまり暇潰しだ。今、12:52。あと30分もある。

 天気は快晴だがわずかに風が吹き肌寒い。公園横上は電車が走っている。
 ファッションの店も多いが、いやファッションの街か。やはり場違いな感じである。
 今、12:57。まだ時間がある。困った。

 仕方がないので『檻の中の女』を携帯で検索して時間を潰すか。あ、ちなみに『檻の中の女』は随分前に既読している。HPB版ではなく文庫の後追い組。文庫最新刊の帯で映画祭を知り今日に至る。

 映画館上映はここ渋谷と大阪だけのよう。なので仕方なしにオシャレな街に来たのだ。
 今、1:05。10人くらいいた公園をみわたすと、わたしを含め4人と鳩二羽になった。上空にヘリコプターが飛んでいる音がする。

 今、1:10。携帯の入力は遅いと思う。救急車が走っている。それと消防車かな。そろそろ行くとするか。
 今、1:12。少し時間が潰せた。レッツラゴー(死語)。

※写真はgoogleのストリートビューを切り貼りしたもの



 作品がダークなのと平日ということもあり、年齢層は高めだった。観客数はざっくり30人未満。
 自発的に映画を観に行ったのは人生初。TVを地デジ化にあわせて捨てたので、なにか映像的な刺激を欲していたんだと思う。YouTubeなどでしのいでいたんだけど欲求不満ぎみだった。
『檻の中の女』は文庫で既読済みで、『特捜部Q―カルテ番号64』の文庫の帯で映画上映を知り、どんな映画になっているのか興味があった。

 随分前に既読済みですが、内容はなんとなく憶えており、記憶との照合しながら映画を観ました。97分という尺に小説全ては詰め込めないのは当然で端折りもありました。

 小説をなぞる展開だったと思う。小説の雰囲気は違和感なく再現出来ていたと思う。

 いきなり映画を観たらちょっと戸惑うと思います。冒頭の事件は追わずに別の事件を追うことになるからね。
 映画だけ観たら風呂敷広げて回収していないじゃんという感想になってしまいます。

 カール・マークを中心にした人間関係は映画ではストーリーに織り込まれてはいるが分かりづらい。
 カール・マークの奥さんと息子の関係は上手くいっていないのはざっくり描かれてはいるが、込み入った事情は描かれてはいない。
 切り捨てられた登場人物もいた。その代表が心理学者モーナ。実はモーナがどんな美人なのか観たかったのは内緒だ。
それはさて置き、心理学者モーナはこのシリーズではマドンナ的キャラクターで欠くことはできない人物である。
カール・マークのリビドーとしても、わたしのリビドー的にも。とはいえ映画的には切られてしまいがちなキャラクターだと思われる。残念。

 アサドの謎めいた人物像は映画ではバッサリ切り捨てられている。警察手帳を持っているのは人物設定の変更だろう。小説のアサドは物凄く謎キャラでそれが魅力的なんだけれどなあ。
 カール・マークとアサドのコンビは、アサドの人物設定の変更によりスタイリッシュになってしまい魅力が半減している。

 ミレーデ・ルンゴーは小説版のイメージに近しいかな。彼女の失踪事件を追うので今回限りのヒロインになる。失踪事件のキッカケは回想シーンとして織り込まれている。
 小説版も同じなんだけど犯人の動機が弱いんだよな。映画でもここが弱い。小説版ではこの弱い部分を人物造形で補っている。犯人の母親なんかももっと憎らしい造形だったし、ヒロインの悲劇性をなんやかんやして盛って上手く誤魔化していたんだけど。
 小説版では犯人グループにもう一人いたような記憶があるが、これは確認していないのでなんとも言えない。
 ミレーデ・ルンゴーの弟も作中では重要な役割があります。彼が事件の真相を紐解くキーマンになります。彼の人物造形は小説版に近しくいい按配でした。

 刑事であるカール・マークを厄介者とした警部が追いやった警察内の地下物置が特捜部Qの本陣。割り当てられた仕事は、未解決事件の書類整理です。つまり左遷みたいなもの。
アサドが助手としてどこからか来ました。この“どこからか”は小説版では謎の含みがあります。文庫版最新刊『特捜部Q―カルテ番号64』になっても未だ明かされていない謎です。
 小説版での地下物置はもっと狭い部屋でしたが映画では書架(事件ファイル)のある割りと広い感じになってましたね。

 冒頭の事件はカール・マークとその部下が巻き込まれる事件で、この事件がもとで特捜部Qが発足されます。映画ではかなり乱暴に投げ込まれるプロットです。いきなり映画を観たらちょっと戸惑う部分ですね。
 入院中の部下(名前は忘れた)を見舞うシーンで部下が「あの時、仲間の到着を待っていたらどうだったのか……ただ、カールの頑固(粘り強さ)さが事件を解決に導く」というようなセリフがありカールに許しと希望を持たせている。映画としてうまく処理しているかな。
 小説版ではこの負傷した部下にも物語があります。泣けて笑えるサブキャラです。文庫版最新刊『特捜部Q―カルテ番号64』でもまだその魅力と能力は完全には開花していません。
 一応補足として書いておくと冒頭の事件は小説版『特捜部Q―檻の中の女』でも未解決です。文庫版最新刊『特捜部Q―カルテ番号64』でも未解決ですが、少しずつ真相を究明していく状態ですね。


 わたしは負傷した部下が結構気になっています。彼の苦悩が凄く気になるのです。理由はいろいろあるのですが、彼に生きる希望が見いだせる日がくることを願って止みません。
 頑張れなんて安易に声は掛けられないし、どうなったら今より幸せなのかも分かりませんが、シリーズをとおして見守っていきたいと思う。


 映画の総評としては小説のパイロット版のような作りですね。ちょっと違うかな。うーん、なんて言えばいいのかな。
 小説そのものは映像化しやすい気がするのだが、映画では魅力が半減してしまっている。テレビシリーズとかもう少し長尺に向いている作品のように思われる。
 小説のパイロット版のような作りと書きましたが、つまり、映画単品ではヒットしない作りなんです。だから、残念ながら、ぜひ観てくださいという映画ではないです。
 小説を読んだ上で観れば理解は容易な作品です。雰囲気は再現しているのだけれど評価は厳しい作品かな。100点満点なら50点くらいな感じでした。


※関連するリンク
特捜部Q―知りすぎた……

2015年1月10日土曜日

ゆるゆる

 ブログをはじめたのが、2008年9月6日土曜日。現在は2015年1月10日。ブログの更新頻度はどんどん落ちてます。内容も薄くなってきました。ほとんど書くことがありません。
 だからやめるという話ではなく、気が向いたら書こうかなと思っています。1年に1回の更新でもいいかなと。

 なぜこのようなことを書くかというと、総アクセスが10万に到達したからです。わたしにとっては凄い数字です。驚きです。こんなクソのようなブログが10万アクセスですからね。
 ただ、アクセス数そのものは本当はどうでもよいかなと思ってもいます。矛盾しているような気がしますがこれが本音です。基本は他者を意識した一人遊びなので。

 今後も、適当に気が向いたら適当なことを書くというスタンスで行こうと思っておる次第です。

 自分の書いたものをちょろっと読んでみましたが、本当に悪文ですな。それと同じことを何度もしつこく書く癖があるな。